ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

遠い母

母とは実際に住んでいる距離も遠く離れている私ですが、お互いの心はもっと離れているのだなあ、と虚しく感じることがよくあります。母はもう83才。記憶が薄れてしまっても仕方のない年です。しかし老いても昔のことはかなり憶えているものです。母は昔のことは全部自分のいいように解釈していて、私とはまるでかけ離れた思い出となっているようです。それを『私と違う』と言おうものならひどく気を悪くして、まるで私が情け容赦もない我儘娘であるかのような印象を与えるので、もう『違う』と言うのはやめました。

幼い私は、どちらかというと所有物扱い(笑)されていました。私の心の中で何か起きているか考えてくれる余裕のない母でした。例えば、私を苛める少し年上の女の子がいました。ところがその子は、まだ歩けない赤ちゃんの(私の)弟のことは物凄く可愛がるのです。母に弟を抱かせてと頼んで、抱いてあやしていることがよくありました。私がそのそばへ行くと『嫌らしい子ね。あっちへ行って!嫌な子ね』と私を追い返すのです。そしてその女の子は私の母と笑って話しています。私は母に『○ちゃんは私を苛めるんだよ』と言っても、母は全く聞く耳持たずで、その女の子とはいつも仲良く話してました。その子の私への扱いを容認していた母は私のことを下女だとでも思っていたのでしょうかねえ。その女の子が結婚した時も『○ちゃんの花嫁姿の写真は綺麗だねえ』なんて言うので、私は『○さん、私、好きじゃないって言ったでしょ』と言うと『あら、そーお』だって。この人、ホントに私の母親かね?と思ったりしました(笑)。

数日前、日本の母から電話がありました。何かと思ったら、私が幼い頃遊んだりした人が来ているから『話しがしたいだろう』ということでした。○さんではありませんが、その人とも私は特に良い思い出はないのです。意地悪こそしませんでしたが、やはり少し年上だったせいかその人はかなり威張っていて、その人の家に遊びに行った時に怒らせてしまい『帰ってよ』と言われたことがあります。ただ、その人の言うことに同意しなかっただけなのですが、怒らせてしまったのは私が悪かったです。でも、電車に乗って帰らなければならないのに幼い子に向かって『帰ってよ』とは... 優しくない女の子でした。

母は、子供の私が何を話ても多分聞いてはいなかったのだろうと思います。私が懐かしいと思う幼友達の女の子はたった一人です。母に何度もその事を話しましたが、私の話は右の耳からから左の耳へ抜けていくのでしょうか、母は、その人のことは滅多に話しません。娘のことがよく分かっている母親なら、どうでもいい人をわざわざ長距離電話の電話口にだすより、懐かしいと思っている人と連絡をとってくれるのではないかな、と思ってしまうのです。そして、母との心の距離が遠く遠く離れていることを実感せざるを得ないのです。