週末に観た映画

Hitchcock/Truffaut


フランスの若き監督 Francois Truffaut が 巨匠 Hitchcock にインタビューし、1966年に Cinema According to Hitchcock という本を出版。その本を元に、後世の著名監督が「どのようにヒッチコックに影響されたか」を語るという形のドキュメンタリー。だいたい知っているようなことばかり述べられていて、あまり面白くありませんでした。ただ、ヒッチコックが若き日にグラフィックデザイナーをしていたということは知りませんでしたので興味深いことでした。その経験からあのようなヒッチコック独特の画面が生まれてきたのだということに納得がいきました。


Son of Saul


アウシュビッツ絶滅収容所のクローズアップ。ハンガリー作品。上映が始まった時、スクリーンの幅が狭く、ほとんど正四角形になっているので、映写係が幕を広げるのを怠っているのかと思って後ろの映写窓をにらみつけてしまった私です。しかし、すぐ、それが製作者の意図であることが分かりました。画面の狭さと背景画像のボヤケは意図的で、その効果は充分に出ていました。
主人公にカメラがくくりつけてあるのかと思うほど主人公の顔や背中が大写しになります。主人公の動きを観客と一体化しようとしたものかも知れません。ナチス収容所内の労働構成を少し知らないと画面の会話だけでは混乱するかも知れません。ユダヤ人の他に敵の捕虜や犯罪者も囚人として収容されており、そういった連中が主に監視役を勤めていたということが薄々分かります。画面のバックグラウンドにハンガリー語、ドイツ語、ロシア語、その他が入り混じって聞こえてきます。といっても私にはドイツ語ぐらいしか違いが聞き取れませんでしたけれど。
収容所には毎日千単位でユダヤ人が輸送され、到着した途端に全員がガス室で殺され、動物のように機械的に処分されていきます。人間が人間をわけもなく大虐殺し、その処理を同民族がさせられていたこと、そのほかにも私の頭の理解力の許容範囲を大きく上回る恐ろしい人間の裏面、残虐性を知らされる度、やりきれない思いがのしかかってきます。
こういう状況に陥った時、もし私がユダヤ人であったらどう行動するのだろうか、命を守るために同族の処理などオメオメとするのだろうか、殺されてもいいから反発するのだろうか。また、もし私がドイツ人だったら、ナチスになびくのだろうか、殺される危険を冒してもユダヤ人を守ろうとするだろうか。人間誰だって殺されたくはないです。ましてや他人のためになど殺されたくないに決まっています。しかし、その善悪が明確であったとしたら、悪を滅ぼすために殺されてもいいと思う人間でありたいし、無駄死にでなく、何か悪行を阻(はば)むことをして命を落とす人間でありたいと思うのです。ただし、実際にその場にならないと自分の心がどう動くのか定かではありません。