ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

一枚の写真

f:id:nykanjin:20190301051049j:plain私の着物姿の写真は一枚だけあります。七五三のお祝いの写真。早生まれの私はまだ2歳9か月でしたが、骨太だったので七歳と言われても信じられたかも知れません。

老いた母がそのオリジナル写真を持っていて、最近になって私に送るように義妹に頼んだらしく、Eメールでコピーが送られてきました。30年ぐらい前に日本に行った時に既に写真屋でコピーを作ったものを私は持っているのですが、一緒に撮りに行った母はそれを忘れているようです。

65年以上前のセピア色の古い写真。写真屋のスタジオで、背の高い2本の白菊が背景にあり、横には光沢のある布張り脚付スツールが置かれていて、人は写真に騙されるものだと思います。私はこの写真を見ると空虚な気持と温かい気持が相俟って複雑な気持になるのです。

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親から暖かい目でみられることがなかった私ですが、一人の伯父だけは娘のように可愛がってくれました。その伯父がお祝い用の着物とポックリを買ってくれたので、それを着て写真を撮りました。両親は娘のお祝いなどはしない人たちでしたが、伯父がせっかく着物を買ってくれたので写真だけ撮ったようです。ホントに写真だけで、両親は神宮にお参りにさえ行ってはくれませんでした。

伯父は絵を上手に描く人で、それに影響を受けた私も絵を描くことが好きになりました。伯父は幼い私(多分3歳頃)に顔、眼、鼻、口の英単語を教えてくれて、数カ月後に私に覚えているか訊くのです。そして私が全部覚えていて暗唱すると、とても嬉しそうでした。幼い頃の私の記憶力は良く、たった4つの単語なんか忘れるわけがないと思う私でしたが、伯父が目じりを下げて喜んでくれるのが嬉しくていました。両親は私と話すことに興味がないようでしたが、伯父は私と向かい合って話してくれました。私は伯父が訪ねてくると嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。伯父が親だったら、伯父と暮らせたらどんなによいかと思っていました。[後記:言い忘れましたが伯父は器用貧乏と呼ばれる生活をしていました。お金などない人でした]

実親の態度は小さい私の心を虚しくしていました。いまでもあの頃の空虚さを思い出しては胸が詰まってきます。伯父への温かい気持と両親への空虚な気持が交互に湧いてきて、とても複雑な気持になる写真です。