ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

義を見てせざるは勇無きなり

今朝、食器を洗いながらふと数年前亡くなった隣の部屋の老人を思い出しました。どういう思考の経過でその老人のことを思い出したのかは思い出せません。

元気だった頃の老人は腰を90度近く曲げながらもしっかり歩いていました。そしてエレベーターで一緒になり、ロビーで降りる時、老人の降りるのを待っている私に老人は手を前に差し伸べて「お先にどうぞ」とレィディズファーストを忘れません。「老いてもヨボヨボ爺ではないぞ」という自負が感じられました。その内、老人は歩行器を使って歩くようになり、そしてとうとう外で姿を見ることがなくなりました。隣の部屋に看護婦さんのような人が出入りしているのを見るようになりました。

暫くすると隣の部屋と繋がる私たちの寝室の壁から老人の声が聞こえるようになりました。看護婦さんに「やめろ、やめろ、あっちへ行け」と言っているようでした。最初は老人のわがままで看護婦さんを困らせているのかと思いました。その内「ヘルプ!へェルプ!」と叫ぶようになりました。看護婦さんが何か言っているようでしたが、老人は「お前なんか嫌いだ、出ていけ」と言っていました。それからヘルプと叫ぶのが何日も続きました。私は心配になっていました。もしかしたら看護婦さんが老人を手荒く扱っているのではないだろうか、と疑ってしまったりもしました。そして老人が隣人の私たちに助けを求めているのではないかと思ったのです。ただ、老人には自分の子供(中年の娘)がいるようで、その人が介護の手続きなど世話をしているはすで、私たち他人が口出ししてはいけないような気がしました。そして心配しながらも黙っていました。

そしてその数カ月後老人は亡くなりました。私はひどく罪の意識を感じました。あの時、老人の部屋をノックして、看護婦に老人の苦しみが隣に聞こえているということを分からせるべきだったかも知れないと思ったりしました。それで少しは老人が楽になったかも知れないのにそれをしなかった私。義を見てせざるは勇無きなり。時々、ふとその老人のことを思い出すのは私の老いた正義がそうさせるのでしょうか。