記憶のはかなさ

ワタクシ、物忘れの度合いが深刻になってきました。「物忘れ」というより「記憶脱落」と言った方が近いです。記憶が戻ってこないからです...っと書いてから、少し前にも「記憶脱落」の書き込みをしたような、とボンヤリ思い出しました。

朝、薬を飲んで、飲んだ記憶がないのはもう日常茶飯事ですが、今朝は、コーヒーを沸かしておいて、沸かした記憶がなくなっているのです。これには自分ながら呆れました。豆を粉砕してコーヒーマシンに入れて作るので、4、5段階の作業を経過することなのに、スッカリ記憶がなくなっているのです。台所にいってみるとコーヒーは出来ていました。まだ救えるのは、作ったことは記憶になくてもその後の行動から判断して、作ったのだろうと納得できることです。判断力の方はまだ正常なようです。

それから「記憶違い」の度合いも大きくなっていることに気が付きました。虫の名前を探してインターネットをブラウズし、ある日本の個人サイトに行き着きました。例のセントルシアの縞々の虫が「ゾウムシ」の一種であるということを、そのサイトの管理人の方に確認してもらい、お礼のついでにセントルシアで大きな蛾を見たことを書き込みました。その時、蛾のサイズを思い浮かべて、5、60センチぐらいだったような気がしてそう書きました。ところが後で自分で記したものを見直したら15センチぐらいだったと分かりました。あわてて訂正を書き込みましたが、もう私の「いい加減」なところ丸出しです。

もっと困るのは、私の記憶違いであると分かった今でも、どうしても50センチぐらいだったような気がしてならないことです。これは末恐ろしい。「虚実を事実のように記憶に残してしまう」のですから。

以前、老いた故義母や実母と話していて、彼女らが自分の都合の良いように記憶を作り変えていることに動揺(本当は憤慨)したことがあります。老婆の狡さか、などと思ったものでした。しかし、老婆たちにしてみれば故意にそうしているワケではなかったのかも知れません。私が記憶違いしたように、感じたままを事実として記憶したに過ぎなかったのでしょう。

過去のことを思い出す時、それが自分のことであっても他人のことであっても、虚実に生きる人生ほど虚しいものはないと思うようになってから久しい私です。しかし、この頃のように記憶が悪くなってきて、事実を忘れ虚実を真実だと記憶してしまうようになったら、どうなるのでしょう。他人に「虚しい」と思われても、本人にとってそれが真実なら虚しく感じることはないのではないかと思ったりします。

事実と虚実、どちらに真実があるか? もし、本人の記憶次第だということになるなら、一生虚実の中に生きても本人は虚しくない...いや、やはり、そう思うだけで虚しくなってくるので、何か「事実を否定せず真実に生きる」ということには「生きることの答え」が隠されているのではないかと思うのです。その答えは分かりませんけど。