ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

ポーツマスの旅

ポーツマスの旅について日付を追って簡単に書きたいと思います。
7/1 土曜日 NY市からポーツマスまでの所要時間は車で約5時間。今回、NY市はスムーズに抜けたのですが、コネクチカットの途中で道路工事が2か所もあり、渋滞に遭って8時間かかりました。
夕食はロブスターロール。ソーセージの代わりにロブスターの身が挟んであるホットドックみたいなものです。
7/2 日曜日 John Paul Jones Houseというミュージアムを訪れました。ここにポーツマス条約の詳細な展示があるということを相棒が前もって調べておいてくれたのです。実際、ここのポーツマス条約の展示物は仔細にわたって説明されていて大変興味深かったです。その中で、会議の行程とその内容について詳しく表になっていたので、他を見た後、ゆっくり見直そうと思っていてうっかり忘れてしまい、後悔しています。
さて「その時歴史は動いた」という番組が新事実に基づいて酷い解釈をしていたと前に書きました。その解釈とは『ルーズベルト大統領が露皇帝と直接交渉し、既に妥協案同意を得たにも拘らず、小村寿太郎に伝えなかった』というものです。そしてその理由として、新事実にある『会議最終日、英国が露皇帝の同意の情報を入手、それを日本政府へ伝え、日本政府がポーツマスにいる日本代表に電報で伝えた』という箇所を取り上げていました。米国大統領ではなく英国が日本へ伝えた→つまり米大統領は小村にそれを伝えなかった、という解釈です。同番組は大統領が同意についてすぐ伝えなかったのは『最終的に米大統領の力で交渉合意に到達という形にして米国及び大統領の名声を高めたかった』という推察をしていました。
しかし、この展示には、当時外交官として米国に滞在していた金子堅太郎氏が小村氏から依頼されて、ルーズベルト大統領に直接露皇帝と交渉して同意を得て欲しい旨、お願いしたとあります。日本代表から頼まれた交渉の結果を大統領が日本代表に伝えないということがあるでしょうか? また、最終会議の前に、金子氏や小村氏が交渉結果について大統領に再確認しないことがあるでしょうか?
 どういう理由で大統領が露皇帝の妥協同意について『隠す』という解釈になるのか、私には不可解です。「その時…」という番組制作者は何かテディさんに恨みでもあるのかしらん、と思ってしまいます。ま、何にしても、テディさんはそんな狡猾なことはしていないと私は解釈します。
←テディさんが読んで感銘したと言われるRoyal Roninの本が展示されていました。忠臣蔵のことですかね。
相棒が「露代表と日本代表は何語で話していたんだろう?」と言うので、単純な私は「英語じゃないの」と答えたら、寿太郎は仏語が話せたと展示物にありましたので、ウィッテ氏と二人の時は仏語で話していたかも知れません。寿太郎さん、やはりあの小柄な体には無駄なく知識が詰まっていたようです。

この日の夕食は橋向こうの隣州メインに行き、ロブスターを食べました。焼いたロブスターを頼んだのですが、足の身はカラカラで食べられなくなっていました。それより、前菜に頼んだスティーマーがほっぺが落ちそうなほど美味しかったです。スティーマーとはLong Neck Clamと呼ばれる薄い殻の貝で、ネックのところに砂が詰まっているのを濯いで食べます。ミル貝の赤ちゃんみたいで、これが物凄く大きくなると、ジャイアントクラム、つまりミル貝になるのだと思います。
7/3 月曜日 ボートに乗って1時間ほどの、昔からのホテルが一軒だけあるスターアイランドを訪れました。
昔から電気も水道もない島で、現在、電気は自家発電、逆浸透圧で海水から真水を作っているそうです。だからこの島では電気と水が貴重で節約が必要だとか。
面白かったのは、この島に行く途中で見た「刑務所」です。下の写真のようにまるでお城。The Last Detailという映画のロケに使われたとか。

島から戻ってから早目の夕食を港の近くでとりました。今度は茹でたロブスターを注文、足の身もしっかり食べることができました。ただし、メスだったので赤い卵が多く、緑のミソが少なかったのが残念。
ホテルに戻って少し休んでから、9時過ぎにホテルの裏庭から花火を観ました。ポーツマスでは独立記念日前夜に打ち上げるようです。ホテルのすぐ傍で打ち上げているらしく大きな花火がよくみえてとても豪華な花火見になりました。
7/4 火曜日 Submarine Albacoreの見学。潜水艦の中はなかなか見ごたえありました。50人乗りということで3段の段々ベッドが何か所かにまとまって備え付けてありました。その一つ一つが細く小さく、上下左右のスペースも大変狭く、小柄で痩せた人しか使えません。特に最上段にムリに入ったら私なんぞは出られなくなる(下の写真の40という番号の上の、パイプに邪魔されて、あるかないかのスペースに寝るようになってます)。

金属製のシャワー、トイレが何か所かに設置され、綿密に設計された収納棚や様々な計器、パイプなどが所狭しと配置されており、通り道も狭く、部屋に続くドアも狭い楕円形で、デブの私はやっと通れました。
←コントロールルームのキャプテンのイスに座って子供みたいに喜んでます。凄い計器です。何が何だか分かりません。
そのあと、Strawberry Bankeという20世紀初めの家々が保存されている一画を見学しました。独立記念日なので入場無料。強い日差しの中を歩いたので疲れて、大きな木の木陰にイスを見つけ、そこでゆっくり休みました。すると近くのテントでユダヤ系ウクライナ人のklezmer音楽が始まり、木漏れ日に癒されウトウトしながらそれを楽しんでホテルに戻りました。

夕食は、また橋を渡った向こう岸のメイン州に行きました。Chauncey Lobster Pound。相棒が調べておいてくれた本格的なロブスターパウンドです。ロブスターパウンドというのはロブスターを重さ(パウンド)で買うと、それを丸ごと茹でてくれるところ。本当にフレッシュで凄く美味しかったです。この店はボート乗り場もあり、ボートでやって来る客もいます。可笑しかったのは、1時間ごとに大砲を打つのです。この店のJuly4thの恒例らしい。大砲を打つの前にウェイターさんが「これから大砲を打ちまーす」と客に注意をして歩くのです。その爆音の凄いことといったら、私はその度ビックリして心臓が縮まりました。写真は大砲を打ったあとの煙。耳を押さえている客もチラホラ。

7/5 水曜日 帰る日の朝、ポーツマス条約の代表たちが宿泊した、ニューカースル島にあるWentworth Hotel を見学しました。一時、経済が落ちぶれたポーツマスで廃墟となったというそのホテルですが、マリオットグループが購入し、修復改造して、今ではステキなホテルになっていました。それから帰途につきました。帰りは渋滞もなく5時間ぐらいでNY市に着きました。

無駄のない体

下欄をみていて、身長を記したことで私が身体のことを批判しているように思われないよう、私の気持を書いておきます。私は自分が5頭身、短足長胴、デブ、その他諸々と心得ていますから、他人の身体のことを批判する気持は毛頭ありません。
小村寿太郎がその小さい体全体で頑張っている様子が明治の人の健気さを知るようで胸打つのです。小村氏はその小柄な体全体に精神が行き渡っているようです。骨にも血管にも皮膚にも無駄なものは何もなく全部が精神で出来ているような気がします。明治気質、もう死語になっているのかな。

カラフルな丘

米国西部のネバダ州、ユタ州、アリゾナ州、ニューメキシコ州などの砂漠には、ペインテッド・ヒルorマウンティンと呼ばれるカラフルな地層の重なる山腹が美しい景色が各所に見られます。私が訪れたカラフルな丘は、カリフォルニアとネバダの州境のデスバレーにある Zabriskie Point という所で、まるで自分がルソーの絵の中に入ったような幻想的な雰囲気を味わいました。
さて、私のパソコンを起動する時に現れる写真に、美しい丘が重なる景色が出てきました。「あ、これはZabriskie Pointだ」と私は確信をもって思ったものです。ところが何と中国の北部の砂漠地帯にある张掖丹霞国立公園の景色であると分かりました。

张掖にたどり着くには、飛行機十数時間、そこから鉄道で15時間 (飛行機もあるが便が少ない)。そしてこの美しい丘に行くには张掖からバスか車で1時間ほどかかるとか。つまり所要時間が2日から3日ということになります。老体の身には中国を訪れる機会は多分ないと思います。Zebriskie Pointを観られただけでも幸せです。

ポーツマス条約

今週末から独立記念日の休日までニューハンプシャー州のポーツマスを訪れます。前々からポーツマスは一度訪ねてみたかった所です。私は港町を訪れることが好きで、ここは日露間条約が結ばれた所と言うこともあり、訪れてみたかったのです。掲題の条約については、日露戦争の講和条約、そして私が「テディさん」と勝手に気安く呼んでいるテオドール・ルーズベルト大統領が仲介に入ったということぐらいしか知りません。

[上の写真、ヴィッテさんのタイトル「露全権大使」書き忘れました]
ウィキをチェックしたら、テディさんが日本海軍と親しく、忠臣蔵の英訳も読むほどの親日家であり、テディさんは条約締結への功績大によってノーベル平和賞を受賞したと記されています。
ところが最近になって偶然 YouTube で『その時歴史が動いた』という番組をみていたら、ポーツマス条約についての新事実が出てきたということでした。テディさんは個人ルートで露国皇帝から既に譲歩合意を得ているにも拘らず最終会議においてそのことを伝えず、両国を決裂寸前にしてから自分の影響力により最終的に条約成立となるような行動をとろうとしたと伝えていました。(実際には小村氏らが会議の直前に本国日本から「露皇帝は領土について譲歩認めた」という電報を受け取っており無事領土分割条件を入れた条約を結ぶことが出来たということです。)
この新事実は、2003年、ポーツマス条約に関する新資料が英国国立公文書館で見つかり、皇帝譲歩に関するニュースは英国から日本に伝わったということが書かれていたらしいのです。
もしウィキに書かれたことが米国資料を基に和訳したものであれば、米国に有利な書き方となり、テディさんのトリックについては触れずにあるかも知れません。もし英国の資料が事実であれば、私は尊敬するテディさんに少し幻滅してしまいます。ただし、どちらを信じるか、私としては、まだはっきりしていません。テディさんは武士道の精神を重んじる人だと思っていたので「その時...」の解釈を丸呑みすることが出来ないのです。
フランス、オランダ、中国にある都市も会議場所の候補に上がっていたが『ポーツマスが選ばれたのは、合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルも多く、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できること、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定された』とウィキに記されています。
日本の使節団は「戦争を長引かせれば日本は武器弾薬も尽き、負ける」という日本国民には秘密の状況を背負って条約会議に臨んでいます。領土と賠償金の両方を要求することの難しさを充分知っていたということです。老獪な超大国ロシアと対等に談合した小さな全権大使に脱帽。

いつもと少し違う閃輝暗点

ここ2-3日、毎日頭痛が続きます。昨日の朝はエクセドリンが効かず、丸一日苦しみました。私の場合、エクセドリンが1回で効かない時はその後何度飲んでも効かないのです。
それでそのあと別の薬を飲んでみました。セロトニン不足かも知れないと思いシタロプラムを飲み、苦しさが続くのでマグネシウムとビタミンB2も飲んでみました。それでも肩や背中が懲り息苦しいのと胃も具合がわるいのでヒートパッドで温めてみました。
夜になって、相棒が帰宅した頃やっと少し良くなってきました。夕食の支度をしてまた横になり、ウトウトしていて夜中に目が覚め、頭痛が少しよくなっていて空腹を感じたのでバナナを食べました。
歯を磨いて床に入り、目を閉じると、小さな閃輝暗点(SS)が見えました。ミニSS(笑)。こんな小さいSSを見たのは初めてです。小さいなぁと思っていたら、右から左へ何度も揺れ動いて、その内、だんだん大きくなってきました。あぁれぇ〜、と思っている内に左へ寄って眼の淵で大きくギラギラしてきました。右の目の奥が痛かったのですがSSは左に見えます。っということはこれは明日の頭痛の予兆で左側が痛くなるのかな? このSSはいつもよりギラギラして模様も少しきつい感じでした。
朝になり、昨日からの頭痛が残っていて、しばらくするともっと痛くなってきました。今朝は歯医者に行く予定があったので頭痛を長引かせてはまずいと思い、すぐエクセドリンを飲みました。幸い、頭痛は引いてきたのでホッとしました。
エクセドリンが効く時と効かない時があるはなぜだろうと思います。この理由が分かれば頭痛の原因も分かるかも知れません。

見つめる鳩

昨日の日曜日は日差しが強く、暑く、そしてかなりの湿気がありました。気温は27℃まで上がり湿度が75%という高さ。午後5時過ぎにセントラルパークを散歩したのですが、まるで日中のような日差しで暑さに強い私も歩くのがだるくなり、木陰のベンチに座って相棒と二人で暫く休んでいました。
すると目の前の少し離れた石畳に一羽の鳩が降りてきて、こちらを見ながらモソモソと香箱座りを始めたのです。そして地面にピッタリお腹をくっつけてチンマリと座り、オレンジ色の目でこっちをチラチラみています。私が鳩の方を見ると鳩は目を逸らし、私が目を逸らすと鳩はまた私の方を見ていました。何かを訴えているようにも思えました。最初は餌でも欲しいのかなぁ、と思ったのですが、鳩が餌を欲しい時はチョコマカチョコマカと歩き回るのに、この鳩はジッとしています。まるで私たちと一緒に休んでいるような様子をみせます。

鳩は、時々人が近くを通ると、それを避けるように少し場所を私たちの近くにずらして座り直しました。そんなことを2、3度ほどして、かなり近くにチンマリ休んでいました。座り直す時にチョット歩いた鳩が少しビッコを引いていることに私は気が付きました。私たちに足を直して欲しいと訴えているのかな。鳩の右足が少し変形して膨らんでいるようなのですが、怪我はかなり前のようで変形したまま傷は癒えている感じでした。
しばらく平和な感じで私たちも鳩も休んでいたのですが、なんとオスの鳩がやって来てこの鳩を追いかけ始めたので、鳩は飛んで逃げました。逃げた方向を見ると、また地面に舞い降り、ヒョッコラヒョッコラ歩いているのをみて可哀そうでなりませんでした。
相棒は「携帯で近くの動物病院を探し始めようとした」と言いました。鳩を驚かせないように捕まえるのも大変だし、向こうへ行ってしまったのだし、と心残りではあったけれど相棒を促してそのまま散歩を続けました。
帰宅してから「傷ついた野鳥の保護の仕方」をググった相棒が「箱に入れて保護する」とあるのを見つけ「セントラルパークに行くときは箱を用意して行かねばならない」と言いました。私が冗談半分で「鳩だけでなく傷ついたリスやらロビンやら見つけたらどうする?」と訊くと相棒は「箱を3つ用意して行く」と言いました。折り畳みの箱でもみつかればいいですが、ま、パークレンジャーに任せておくのが一番だと思います。
余談:私と相棒は以心伝心で、相棒も「折り畳みの箱」のことを考えたと言ったので二人で笑ってしまいました。時々同じ時に同じことを考える二人です。

インビザライン最後の日

きょうはインビザライン着用最後の日、のはずだったんです。朝、歯科医に行きました。
一応曲がっていた下の歯1本は真っ直ぐになりました。着用時に歯に付けた痛いイボイボを削ってスムーズにしてもらい、やっとスッキリしました。
さぁて、これでお終いだ、っとほくそ笑んでいた私に、歯科医が後出しみたいに「今後1年間ほど夜にインビザラインを着用して就眠すること、そうしないと元に戻る可能性がある」と言いました。その治療費はまた別払いです。うひょー、いろいろと後出ししてくる歯科医だなぁ、と思いました。
ま、はじめに私が治療について詳しく質問しなかったのも悪いのでしょうが、どんな治療をするか分からないのですから質問のしようもなかったんです。この歯科医はイボイボ(定着用のポッチ)についても前もって説明してくれなかったし、着用時間(1日22時間)についても曖昧だったし、隣り合わせた歯の横を削り隙間の調整をすることも説明がなく、この最後の「治療後1年間、保護用のインビザを着用すること(治療代別途)」など、ちょっと後出しとしては計画的な感じがしました。治療の都度、え?え?と思いながら治療されるままにしていましたが、イボイボは恐ろしく痛かったので、治療前後にもっと説明が欲しかったです。それとこの治療後の保護治療なんかも先に伝えてもらえたら心の準備が出来たのにと思います。
たった1本曲がっていただけなので整形歯科治療してしまえば楽だったと思います。料金も1本なら安く済んだはずです。健康な歯を無駄に削ることを避けたかったので矯正治療を選んだのですが、矯正治療でも他の歯を少し削ってスペースを作ったりするとは知りませんでした。更に整形治療では保険は効かないと覚悟していましたが、インビザ矯正治療は保険が効くと思っていました。ところが保険対象者は19歳以下で、ババァの私はカバーされませんでした。それで治療費はかなり高くつきました。
たった1本の歯でも矯正はいろいろと面倒臭いものだと知りました。"learn the hard way"という言い回しがあります。「失敗して学ぶ」「痛いめにあって物事を学ぶ」「悪い経過や結果になって反省し、そこから学ぶ」といったところでしょうか。このインビザライン治療は私にとってそんな感じでした。