今週末から独立記念日の休日までニューハンプシャー州のポーツマスを訪れます。前々からポーツマスは一度訪ねてみたかった所です。私は港町を訪れることが好きで、ここは日露間条約が結ばれた所と言うこともあり、訪れてみたかったのです。掲題の条約については、日露戦争の講和条約、そして私が「テディさん」と勝手に気安く呼んでいるテオドール・ルーズベルト大統領が仲介に入ったということぐらいしか知りません。
[上の写真、ヴィッテさんのタイトル「露全権大使」書き忘れました]
ウィキをチェックしたら、テディさんが日本海軍と親しく、忠臣蔵の英訳も読むほどの親日家であり、テディさんは条約締結への功績大によってノーベル平和賞を受賞したと記されています。
ところが最近になって偶然 YouTube で『その時歴史が動いた』という番組をみていたら、ポーツマス条約についての新事実が出てきたということでした。テディさんは個人ルートで露国皇帝から既に譲歩合意を得ているにも拘らず最終会議においてそのことを伝えず、両国を決裂寸前にしてから自分の影響力により最終的に条約成立となるような行動をとろうとしたと伝えていました。(実際には小村氏らが会議の直前に本国日本から「露皇帝は領土について譲歩認めた」という電報を受け取っており無事領土分割条件を入れた条約を結ぶことが出来たということです。)
この新事実は、2003年、ポーツマス条約に関する新資料が英国国立公文書館で見つかり、皇帝譲歩に関するニュースは英国から日本に伝わったということが書かれていたらしいのです。
もしウィキに書かれたことが米国資料を基に和訳したものであれば、米国に有利な書き方となり、テディさんのトリックについては触れずにあるかも知れません。もし英国の資料が事実であれば、私は尊敬するテディさんに少し幻滅してしまいます。ただし、どちらを信じるか、私としては、まだはっきりしていません。テディさんは武士道の精神を重んじる人だと思っていたので「その時...」の解釈を丸呑みすることが出来ないのです。
フランス、オランダ、中国にある都市も会議場所の候補に上がっていたが『ポーツマスが選ばれたのは、合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルも多く、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できること、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定された』とウィキに記されています。
日本の使節団は「戦争を長引かせれば日本は武器弾薬も尽き、負ける」という日本国民には秘密の状況を背負って条約会議に臨んでいます。領土と賠償金の両方を要求することの難しさを充分知っていたということです。老獪な超大国ロシアと対等に談合した小さな全権大使に脱帽。