ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

この頃思うこと

以前は、具体的に事態を予測して困惑したり不安になったりしていたのですが、最近は、何が原因なのか分からないのに不安な気持になることがよくあります。何だか分からないので解決する方法も思いつきません。

最近の日本のニュースを聞いて辛い気持にはなりますが、日本は昔から自然災害を避けられない位置にあり、いまさらそれが私の不安の原因になっているとも思えません。

自然の美しい国にありがちな自然災害を日本は避けられない運命にあるようです。打たれても壊されても流されても、自然の力に逆らわず、ただ委ねて生活してゆく内に、金品にも命にも固執しない日本の国民性が培われてきたと言われています。方丈記そのものの日本が私には好ましくさえ感じます。

もう47年前になりますが、20代の私が米国に来て最初に息苦しいと思ったのは「生きる権利」を振りかざし、そしてそれを誰にでも押し付ける風潮でした。ガムシャラ(必死)に生きることが人生の目的であるという感覚は、私にはなかなか馴染めませんでした。そんな私も米国に長く居付き、甲状腺癌の摘出や腰関節置換などの外科手術を受け、こうして生き延びています。私が育った頃の日本は定年が55歳でした。私の知っている有名人がどんどん亡くなっていき、その人たちの年齢をみると、自分の歳とそう変わりなく、自分も高齢と言われる歳になったのかと改めて驚くことがあります。

自分が老いていくことに不安があるとは思いません。ただ、こちらの看護士さんやらヘルパーさんに頼ってまで生活するのは何としても避けたいと思っています。故義母がヘルパーさんに世話されていた頃、時々、垣間見たヘルパーさんたちの低俗さにゾッとすることが何度かありました。だから義母はなるべく私に世話をしてもらいたかったようですが、義母の家までは電車で2時間近くかかるので、私は週に1-2回ぐらいしか通えませんでした。そしてその頃はまだ結婚していなかったので、嫁というよりガールフレンドという立ち位置でしたっけ。困ったことに、あまり世話をしすぎると義母に120%寄り掛かって来られることでした。毎日面倒みられるならそれでもいいですが、たまにしか来られない私を頼り過ぎれば義母はヘルパーさんでは不満が溜まり過ぎてしまうという結果になってしまうのです。何事も程度があり、人生とは難しいものだと思ったものでした。義母をみていたので、看護士やヘルパーさんの実態を少し知ることができたというわけです。私が当時思ったことは、老人を冷たく扱うヘルパーさんたちは自分たちが老いた時にやはり同じような扱いを受けることになるんだろうな、ということでした。

さて、老いた私にとってNY市はいろいろな意味で住み難くなっています。47年前から住んでいますが、その頃と今ではNY市もかなり変わってきています。昔は物価がそれほど高くありませんでした。地下鉄やバスは15セントで乗り放題。今は2ドル75セント。映画館の料金3ドルから5ドルぐらいだったけれど、今は20ドル近く。映画自体も脚本家不足でアニメやデジタルの子供向けの低能な作品ばかりで、いつも料金を払ったあとで気分が悪くなります。

レストランもしかり。食材を知らないコック(シェフとは敢て言わない)が見た目だけモダンにした料理を出すけれど味はプラスチック、こんなもの金を払ってまで食べる自分がバカバカしくさえ思えてきます。キッチンやサービス係も何となく衛生的でないし、トイレの後に手を洗ってるかどうかさえ信用できません。そういう気持の悪い食事のあとに10%に近い税金と18%以上のチップを加えて支払う時のアホらしさ...。

マンハッタンは街がゴミだらけで臭いし、排気ガスや工事のため空気が汚れきっており、喉や肺が侵され息苦しい毎日です。健康のために外へ出て歩けと言われてもその気にならないのは私が怠惰なだけではないと思います。

老婆となった私は、できれば、安全で、普段は静かで、空気がきれいで、自然に恵まれていて、食べ物が新鮮で、物価の安い所に住みたい、つまりNY市とは真逆の所に移りたいのです。

ほとんど他人と話すことのない毎日を過ごしている私なので、山奥でも寂しいという気持にはならないような気がしますが、あまり人里離れた所に住むと必要なものが入手できなかったり買物に不便になったりしそうなのが気になります。食料品ならトレーダージョーズ、家電機器ならホームデポ、日用雑貨品薬品ならウォルマート。その3店がそれほど遠くない所にあれば、可も不可もなく老後を送れそうな気がします。

もちろん、犬や猫を何匹か飼って過ごしたいです。