ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

大きな変容(1)生活

下欄に「変化の大きな時代に生きて来た」と書きましたが、振り返ってみるに、私が生まれ育った時期と今とでは、その生活の変容は江戸から慶応、明治の時よりも大きいと思います。ちょっと長いですが、私が思い浮かべた日常の違いを書留めてみました。

お産とオシメ

私はお産婆さんに取り上げて貰いました。もうお産婆さんという職業もないと思います。

オムツは、古い浴衣をほどいて「オシメ」を作り、何度も洗って竹竿で干して使っていました。昔のお母さんは赤ちゃんの排泄物の処理をして洗っていたけれど今は使い捨ての「オムツ」。昔の方がゴミの量が少なくて済んだし、今の時代がいいというワケではないです。

洋服

昔は既製服が高かったので、生地を買って家で服を作る方が安上がりでした。今は買った方が安いけれど安い服は一度洗濯するともうボロ服になるような生地や雑な縫製で、実質安いのかどうか疑問です。

食料買い出し

一般市民は冷蔵庫なんかないので食材は毎日買っていました。スーパーはなく、小売店、魚屋さん、八百屋さん、肉屋さんなど一軒一軒覗いて細かく買物をしてました。各小売店は新鮮なものを売らないと評判が落ちます。近所で評判の良い店で買物をすれば安心でした。そして魚屋さんも八百屋さんも扱う商品に対しての知識が豊富でどうやって食べるか教えてくれました。スイカなんかも熟れているか2~3日待った方がいいか、などと教えてくれました。

娯楽

そして楽しみはラジオでした。ドラマ(「赤胴鈴之助」とか「少年探偵団」(笑))や語りなどがあって面白かったです。浪曲もありました。3歳ぐらいの私が村田英雄の浪曲を聴いて涙流していたものです。

ラジオからテレビに変わったのは私が8~9歳の頃だったと思います。最初の頃は白黒で番組も少なく、動かないテストパターンをジッと見て番組が始まるのを待っていたこともありました。カラーになってから暫くは色が二重になってテレビの上に載っているアンテナをアチコチ動かして調整するんですが色と形がずれてピッタリしなくて酷い画面でした(笑)。よくあんな不完全なものを販売できたと思います。

余談ですが、私は中学生になってもラジオを聴いていました。米軍基地の兵士のための極東放送(英語)を聞くことができて、よくポピュラー音楽を聴いていました。それから外国のヒット曲をリクエストできる放送が始まり、ビートルズなどの英国グループやサイモンとガーファンクルなどの米国グループ、アダモ、ダリだなどのシャンソンを知り、レコードを買い込み始めました。円盤レコードから8トラックテープになり、そしてCDになり、今はインターネットで何でも聴けるようになっちゃいました。