ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

鬱を凌いだ二十数年間のブログ(回想録)

私がブログを書き始めたのは会社勤めを辞め自宅で何かしようと思った1999年頃のこと。その頃は今と違い、まだ在宅の仕事などは余程能力かコネのある人でなければ不可能なことでした。しかし私はその頃自分の能力を過信していたのでございます🤪アラョッ!。セールスやネゴシエーションの能力さえも全くなく、コネもなかった私、しばらくして仕事に対する自分の能力のレベルの低さを認めざるを得ず、1年ほどで挫折、自己嫌悪のため数年鬱病に近い状態になっていました。

「過信する者」にとってその能力のなさを知らされることほど辛いことはありません。株ブローカー米国企業にホンの一時勤めたと言うだけで専門知識など無いも同然のまま専門外の株式市場の翻訳を請け負い、その仕事をその業界の知り合いに見てもらったのですが「これ、日本人が読むのかよ」と言われ、強烈な打撃を受けました。ガ~ン😨 能力のなさを自認するのは切なすぎて、長く長くかかりました。徐々に徐々に自分の立ち位置を自覚し、背伸びしたり縮こまったりせず潔く受け入れられるようになるには年数がかかりました。苦しかったですが人間として生きる上で鍛錬になりました。今思うに、株式市場なんかでなく映画の字幕の翻訳をやれば出来たと思っています。ただもう今の私の日本語の話し言葉もカビがはえてオカシクなっているので字幕も無理だし、やる気もありません🐸。

さて、その鬱の状態の時に藁をも掴む気持で書き込み続けていたのがブログでした。ブログを続けることで、時々書き込みをしてくれる人との交流などで何とか本格的な鬱になるのことを避けていました。それから20数年の間、ブログサービスを3回ほど変えている内に前の10年分の書き込みは消えてしまいました。それでも後の12年分が残っていて、見返すと特に旅の思い出は懐かしく、忘れていたこともたくさんあり、書き残しておいて良かったと思うことが多いです。

1つ付け加えておかねばなりません。ブログの支えもありましたが、一番大きかったのは鬱の私を傍で支えてくれた相棒の力です。何にも増して力強いものでした。

70歳を疾(とう)に越えて見かけはすっかりシワシワ、心の方も少しずつ老いて、この世への執着心が薄くなってきているのが有難いです。最近は何でも有難くて感謝ばかりしています。朝、天気が良く白い雲が青い空に浮かんでいるのを見て有難いと思います。相棒が以前のような支障がなく朝食を食べ終わることが出来ることに二人して感謝しています(+現在はその感謝の祈りに相棒の従妹の長男[イスラエル特殊部隊]の命の安全も加えています)

日本の平均によると、私の健康寿命はあと3~4 年。その後の平均寿命までが5〜6 年ぐらい。最後まで自立して生活できればいいと願ってはいますが、こればかりは誰にも予測できません。予測できないことを無闇に思い巡らすことは不毛なことなので、今日一日を感謝して過ごすことにいたします。