ユタ州南部の日常

ユタ州南部での隠居生活

偽善者とは

【 今キッチンのペンキ塗り替えをしてもらってます。一日かかると思います。それで業者の仕事の邪魔にならないようにベッドルームに避難してます。することないのでPCに向かって時間つぶしに書き込みしてます。】

親鸞聖人は「自分は偽善者である」と認めていたそうです。

悪性さらに止め難し、心は蛇蝎の如くなり、修繕も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞ名けたり。

「心の中でよくない事を思うことがが止められない自分は善行を行っても偽善でしかない」ということだそうです。親鸞聖人は、自分は煩悩があり過ぎるので厳しい修行は無理だと考え、修行中断したそうです。そして煩悩を持ったまま、それでも仏教に沿って生きることに専念したようです。

最近の私は心の中で「蛇蝎のようなよくない事」を思うことはあまりないのが幸いです。だからと言って自分が良い人間であるとは思っていません。それにしても「良い人間」てどんな人間なんでしょうかね。人間である以上、親鸞聖人のおっしゃるように煩悩があります。その煩悩が「悪い事」であるならば「良い人間」など皆無ということになりませんかね。

優しい人は「良い人」なんでしょうか? 私は最近それに疑問を持つようになりました。まず「優しさ」ってなんだろうと思うのです。他人を思いやること?その場の気持をよくするだけでなく、その人にとって為になることが「優しさ」だとすると、一般に「優しい」と思われている人は本当に優しいのでしょうか? ま、私は優しくありたいと努力するのですが、努力するということ自体既に偽善なのかも知れません。

ただ、私にとってハッキリしているのは有事の時に逃げる人が偽善者だということ。どんなに悪いことを心で思って外面を善くしていても、その時になって逃げないで処理しようとする人は偽善者ではないと思うのです。そして自分が偽善者かどうかは、その時になってみなければ本人でも分からないと思うのです。人を助ければ自分がどうなるか分からない時でも人を助けようとすれば偽善者ではないでしょう。

私は、そんな時、多分逃げるんじゃないかと思うのですが、もしかしたら…という望みが少しあります。というのも、以前、旅の途中で車が崖で立ち往生した時、自分でも意外なことに、慌てず騒がず必死で車を逆戻りさせるよう相棒を力づけて行動したことがあるのです。あの時はダメ元でしたが何とか窮地を脱したのです。あのような時に自分が冷静に行動するとは全く思っていなかったのです。だから「その場」になったら逃げない自分がいるかも知れないと淡い希望がないことはないのです。

もう身も心も老いて力弱くなった私、人を助けることは出来ないかも知れません。それでも老体の力を振り絞って偽善者にならない行動をとるでしょうか。今、共産主義に乗っ取られようとしている米国を助けるのが「その時」であるなら、何もしていない私は偽善者なのかも知れません。